ToshioOkada 「はじめに」 いまの若い人を見て、一番気の毒 なのは「えらい先生」に出会ってないこと。 #otakingex 約5時間前 TweetDeck から あなたがリツイート
ToshioOkada 「それは私のせいじゃない。尊敬できる先生がい ないことが悪い」と言う人もいる。本当だろうか?「尊敬できない のは先生の出来が悪い、先生運が悪いだけで私の責任じゃない いや、違うんじゃない?・・・という内容の本です 約5時間前 TweetDeck から あなたと4人がリツイート
ToshioOkada 先生というのは、出会う以前であれば「偶然」と 思えても、出会った後では「運命的必然」としか思えなくなるよう な人物。それが先生の定義 約5時間前 TweetDeck から あなたと6人がリツイート
ToshioOkada そういう君は絶体に読んだ方がいい。「先生をえ らい、と思えない部分がダメダメ」と論証してるからw #otakingex RT @ m_yashiki: 「りっぱな先生」はいるけど、「えらい先生」って いないと思う。 えらいと思ってる時点でだめだめだと思うのだが 約5時間前 TweetDeck から あなたと1人がリツイート
ToshioOkada 第一章「先生は既製品ではありません」: 「誰 い。先生とは自分で探すもの。ここを内田は「恋愛と同じ」と喝破 する。 #otakingex 約5時間前 TweetDeck から あなたと4人がリツイート
ToshioOkada 恋愛とは「周囲はいろいろ言うけど、私にはこの 人がとてもステキに見える」という”客観的判断の断固たる無視”の 上にしか存在しない。つまり内田論では「みんながステキと言って くれる彼氏」という恋愛像を根本的に否定w 約5時間前 TweetDeck から あなたと6人がリツイート
ToshioOkada 「あの先生、最高!」というのは恋愛と同じで 一種の誤解であり妄想である。しかし師に対する「誤解の多様性 ゆえ、ひとりひとりが「固有の成熟プロセス」をたどることができ る。恋愛が誤解に基づくように、師弟関係も本質的には誤解に基づ く #otakingex 約5時間前 TweetDeck から あなたと11人がリツイート
ToshioOkada さて、では免許を取った後、サーキットでF-1ド ライバーから運転を習う機会があったとする。たとえ半日の講習で も「オレはシューマッハにアクセルターンを教わった」と自慢し師への感謝を口にするのでは? #otakingex 約5時間前 TweetDeck から あなたと1人がリツイート
ToshioOkada 教習所の教官が教えたのは「運転はこれでいい という”定量的な技術”。しかし、F-1ドライバーが教えたのは「運転 には『これでいい』という限界はない」「運転は想像であり、ドラ イバーは芸術家」 #otakingex 約5時間前 TweetDeck から あなたと5人がリツイート
ToshioOkada 一方は「これができれば大丈夫」と言い、もう一 方は「学ぶことに終わりはない」と言う。この段差が「学び」を考 えること。 #otakingex 約5時間前 TweetDeck から あなたと3人がリツイート
ToshioOkada 教習所の教官は「君は他のドライバーと同水準に 達した。だから合格」という。つまり到達点を具体的に指示する しかしF-1ドライバーは「君は他の人とどこが違うか」しか評価し ない。つまり「ここが完成、というのはない」と。到達点を消去し てしまう。 #otakingex 約5時間前 TweetDeck から あなたと5人がリツイート
ToshioOkada 学ぶとは創造的な仕事。創造的と言うことは「同 じ事を学ぶ生徒は二人といない」という意味。弟子たちは師から同 じ事を学ばない。違うことを学んでしまうのが学びの創造性であり主体性。「この先生の素晴らしさを知ってるのは私だけ」という誤 解が絶体に必要 #otakingex
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